「新春法話」初詣に話した法話集です
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【「新春法話」初詣護摩祈願後の法話集】
平成19年からの新春法話を集めました

● 平成30年新春法話 「普通がいいな」
  →H30年 pdfファイル A4、1ページ

● 平成29年新春法話 「足るを知って 身を正す」
  →H29年 pdfファイル A4、1ページ

● 平成28年新春法話 「+−×÷で人生豊かに」
  →H28年 pdfファイル A4、1ページ

● 平成27年新春法話 「学んで人生楽しく」
  →H27年 pdfファイル A4、1ページ

● 平成26年新春法話 「仏様が説くおもてなし」
  →H26年 pdfファイル A4、1ページ

● 平成25年新春法話 「小さな喜びを大切に」
  →H25年 pdfファイル A4、1ページ

● 平成24年新春法話 「夢をもって人生楽しく」
  →H24年 pdfファイル A4、1ページ

● 平成23年新春法話 「良心を育てよう」
  →H23年 pdfファイル A4、1ページ

● 平成22年新春法話 「朝は「おはよう」の一言から」
  →H22年 pdfファイル A4、1ページ

● 平成21年新春法話 「普段の健康は、歩くことから」
  →H21年 pdfファイル A4、1ページ

● 平成20年新春法話 「どうせなら笑って過ごしましょう!」
  →H20年 pdfファイル A4、1ページ

● 平成19年新春法話 「一人一つしかない命」
  →H19年 pdfファイル A4、1ページ

平成30年新春法話 「普通がいいなす」

あけましておめでとうございます。
本年もようこそ、お地蔵さんのお寺正光寺 初詣にお参りくださいました。
近年初詣では三が日で参拝者が千人を超え、秋の七五三時期には百人を超える 幼子たちがお参りにきており賑わいを見せております。
これも地域の人々の信仰の支えがあってのものであり、ありがたいことだと思っております。
今思うと初詣や七五三の行事を始めたころは、違和感を覚える人がおりました。
お寺では故人やご先祖様の供養する場所として理解されている方が一般的ですが、 弘法大師空海が開いた真言宗の教えでは、供養することも大事だが、 同じように今を生きる私たちの祈りと安心を求める事も大事と考えます。
祈りと安心を求める行事が初詣や七五三などで、決して特別な行事を行っているわけでなく、 真言宗としてごくあたりまえの行事を行っています。
年を経る中で今では普通にお参りいただくようになりました。
今年の新春法話のテーマは「普通がいいな」です。
普通という言葉を私たちは日常生活のなかでよく使う言葉です。
でも「普通ってなに?」と考えてみると、定義しがたいところがあります。
字義で見ると普通は「普く通じる」となり、意味として「おおむね」「ごくありふれた」 「あたりまえ」「平凡」「いつも」と同義語があげられます。
反対の言葉には「特異」「特別」があります。
人生を達観したひとに「人生は普通に生きられれば良い」と言う方がおられますが、 この言葉が言わんとしていることは決してこの世に生まれていきなり普通に生きるというわけではありません。
人は物心がつき欲が芽生え様々な体験をしていく中で、成功して得意げになったり失敗して挫折したり、 出会いを喜んだり別れを悲しんだり、笑ったり腹をたてたり、 意固地になったり寛容になったりなどして心のありようの両極を知っていきます。
そしてその気持ちがどちらかに極端であれば良くも悪くも自己を苦しめる結果をもたらすことを  年を重ねていく中で反省しながら理解していきます。
心底理解したとき、これからは極端の気持ちにならないように気を付け、ほどほどな気持ちを持つことを心がけるようになります。
つまり「ほどほど」というところが「普通」ということではないでしょうか。
 では「ほどほどの気持ち」を持つためにはどうしたらよいのでしょうか。
仏教では執着を捨てよと説きます。物事こだわるなということです。
しかしこだわるなということを考えてしまうと かえってこだわらないということにこだわってしまうので矛盾してしまいます。
ですから難しいところではありますが、「こだわらない」を「特に何も考えない」と考えてみてはどうでしょうか。
こだわらずに生きる。物事に深く考えず、ありのままを受けとめるようになれれば、 自然と人は「ほどほどの気持ち」をもつことができると思います。
明治時代 京都女子大学の創始者、甲斐和理子の歌に 「岩もあり 木の根あれども さらさらと たださらさらと 水は流るる。」 (水は高きところから低いところにただ普通に流れる。)があります。
 「普通がいいな」 私たちの人生 毎日が特別なことがあるわけでなく、 ごくありふれた日常生活の連続で成り立ち、生から死へと生きていきます。
先ほどの歌の水のごとく生きることができれば、真の幸せに近づくことができるはずです。
 皆様のこの一年のご多幸を祈念し、新春の法話とさせていただきます。

合 掌

平成三十年 戊戌 元旦 
延命山正光寺 住職  野 驕@晃


 謹んで初春のお慶びを申し上げます。
 ようこそ、お地蔵さんのお寺 正光寺にお参りいただきました。
 新年を迎え、一言新春法話を述べさせていただきます。
お正月という言葉の本来の意味を皆さま知っておられますか。
正月とは「修正(しゅしょう)の月」の略で、「心身を正しく修める月」という意味があります。
昨年の自分の行動、言葉、心のありようを振り返り、自らを慚愧(ざんき)し(はずかしめ)、
悪いところがあれば大いに反省し、新たなる気を取り込み一年の安泰を願って心身を正しく修める大事な月ということで、
「修める」には、心や行動が乱れず正しくするという字義があります。
 そして、悪いところとは、つまり「煩悩」という心の乱れ、汚れであり、
特に三毒煩悩に挙げられる 貪(むさぼ)り 怒り 無知の心は、人の諸悪と苦しみの根源とされ、仏教では何事も焼き尽くす火にたとえられます。
 ところで、煩悩と欲を同じ様に考える人もいますが、欲を持つということ自体は決して悪いことではありません。
私たちの幸多き実りある人生を送るためには、五欲(財欲、色欲、食欲、名誉欲、睡眠欲)にみられる欲がなければなりません。
欲は命あるものであれば、あって当たり前のことです。
しかし、欲は欲を産み際限のないものでもあります。
欲に欲をかけば、欲は煩悩と変化し必ず心身に災いと苦しみをもたらします。
 「過ぎたるはなお及ばざるがごとし」という論語の教えにあるように、欲深さには日ごとの注意が大事です。
そこで、「知(ち)足(そく) 足るを知る」という教えが役に立ちます。
 お釈迦様の臨終の場面を描いたお経「遺(ゆい)教(きょう)経(ぎょう)」に「諸々の苦しみをまぬがれたいならば、知足の教えを学びなさい。
知足の教えは富楽安穏を導く教えである。知足を知らぬものは豊かであっても心は貧しい。
知足を知るものは、貧しくても心は豊かである。知足を知らぬものは欲望の奴隷になる。」と「知足」の教えが説かれています。
足るを知るということは、満足を感じるということです。
欲を持って生きる中で、恵まれていると感じたならば、欲をほどほどにして慎めば、物事は円滑に進んでいきます。
 「衣食足りて礼節を知る」という言葉がありますが、果たして今の日本人に礼節はあるのでしょうか。
礼節をわきまえず私たちは我田引水的なものの考え方をしてきたのではないでしょうか。
結果、格差社会、無縁社会と言った世の中を産みだしたのかもしれません。
 修正の月を迎え、足るを知って身を正すことで心に余裕のある生活を送っていただきたいと思います。
心の余裕が、自然と私たちに慈しみの心を芽生えさせます。
私たちの慈しみの心が原動力となって、多くの苦しんでいる人々を助けることを願って、新春の法話とさせていただきます。

合 掌

平成二十九年 丁酉 元旦 
延命山正光寺 住職  野 驕@晃


平成28年新春法話 「+−×÷で人生豊かに」

あけましておめでとうございます。
 本年もようこそお地蔵さんのお寺正光寺に御参拝いただきありがとうございます。
さて、昨年を振り返りますと、喜怒哀楽を感じる様々な出来事があったなかで、「だます、だまされる」 といった構図の事件が相変わらず起きており、不信や疑惑がます一年ともなりました。
 そもそも私達は、この世に生まれ様々な環境の中で育っていくなかで多くの知恵を取得します。
知恵を用いて生活をよりよくしようと考えるのが普通なのですが、そこに悪知恵が働くと、色々な悪事を産み出します。
知恵に基づき人の福利を願って計算をすれば社会に大きな福をもたらします。
しかし自分だけの損得を考えての計算は、社会に不幸をもたらします。
生活を営むうえで、世界中の人びとが知恵を用いて計算をするのは当然ですが、その計算一つで、 社会が良くもなるし悪くもなるということを私達は、人類が歩んできた歴史から学ばなくてはなりません。
  ところで、計算には単に数量を計り数えるだけではなく、結果や成り行きを予測すると意味があります。
そこで今年の新春法話は、学校で習う算数の話しをするのではなく、違った角度から「+−×÷」の話したいと思います。
 先ず「+」たし算です。足し算は、増えること加わることが分かる計算です。増えること例えば年齢です。
新年を迎えれば年齢が一つ増えます。年齢を重ね、種々の経験を通じて知識と知恵が増えていきます。
そして加わるということは、家族であり仲間です。人生における多くの出会いを教えてくれる計算です。
 次に「−」ひき算。減ること失うことが分かる計算です。
減るとは、年をとって体力や気力の減少、老化であり、失うとは亡くなることでもあり、人生において別れを教えてくれる計算です。
たし算とひき算。出会いと別れを重ねることで皆さんの今の人生があることを教えてくれる計算です。
 次に「×」かけ算。かけ合わせるという計算です。
一人の力では微力でも、多くの人が力を出し合えば大きな力となることを教えてくれる計算です。
例えば、災害時における募金。一人が百円募金しても少額ですが、一万人が募金すれば百万円、百万人が募金すれば一億円になります。
 最後に「÷」割り算。均等に分けるという計算です。
人生において多くの恵みを享受しますが、多くの恵みを独り占めすることなく、仲よく均等に分けることの大切さを教えてくれる計算です。
しかし割り算は、割りきれず余りがでる場合があります。
その場合、残ったものを争ってまで奪い合えば醜さが残りますが、譲り合って弱者に分け与えれば美徳が生まれます。
かけ算とわり算は、助け合うこと分かち合うことを通じて心を豊かにしてくれる計算です。
「+−×÷」。たかが計算の記号ですが、数字を計算するのではなく、自分の人生にあてはめて計算をしてみると、何か尊いことを感じるのはないでしょうか。
そして尊いことを感じることができれば、その計算はあなたの人生が豊かだという証です。

合 掌

平成二十八年 丙申閏年 元旦 
延命山正光寺 住職  野 驕@晃


平成27年新春法話 「学んで人生楽しく」

 あけましておめでとうございます。
 新春を迎え、正光寺の初詣にお参りいただきありがとうございます。
 今年の新春法話は「学んで人生楽しく」です。学ぶことは学校だけで十分だという人もいますが、 学校で学ぶは言うなれば勉強です。本来学ぶとは自発的な行為なのです。生きる上で学びは不可欠です。
この世はわからないことだらけです。私たちは色々なことを知り学ぶことで、 私たちの人生がより良き道になるように努め、心豊かになることを求めることが大事です。
 そこで人生の良き道を示す教えの一つが仏教です。仏教では、この世は苦しみに満ちている。
苦しみから逃れるには智慧を体得して悟りの境地に至るしかないと説きます。
そして智慧の体得のために「聞思修(もんししゅ)」の実践を説きます。
仏様の教えを聞いて、思考し、修行することによって智慧は体得できるということです。
この教えは、私たちの日常生活の学ぶ姿勢に活かすことができます。
 「聞 」 聞くということ。人の話に耳を傾け、分からないことは尋ねて聞くことが大切です。
聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥という言葉がありますが、聞くことで学びは始まります。
 「思」 思うということ。 聞いたことの内容を整理し、自分に問いかけてみる。
そこで自分に欠けていることや自分の考えの間違ったところに気づいて反省してみることです。
 「修」 実践すること。 人から聞いて良いと思ったことを実践するには、真似をしてみることから始めるといいでしょう。
分からなくなれば、また聞けばいいのです。実践を通じて自ずと分かり得ることがあれば、それが智慧なのです。
 聞思修で学び得た智慧は必ず各々の人生をより良きものへと導くことでしょう。
 また、学ぶことで心の豊かさを求めるには、好奇心をもつことです。好奇心とは興味を示すことです。
日常生活の中で少しでも興味を持つことがあれば、それを深く追求してみようと思う心が好奇心です。
老若は関係ないと思います。例えば料理やカラオケ、ゴルフで上達したいと思うこと、物事の歴史や、 仕組みなどを調べようと思うこと、こうした好奇心を持って学べば、学び得たことに喜びを感じるはずです。
多くを学べば、喜びも多くなります。喜びが多ければ、人生を豊かに感じるはずです。
 しかし学ぶには心の余裕が大事です。日頃何かに追われながら慌しい生活の中では、 学ぶ意欲も湧かないでしょうし、学んだとしても学んだことを活かすことはなかなかできないでしょう。
生活に余裕をもたせ、何かを求める心があれば、様々なことを学ぶことによって、自分に大きな成果をもたらすことでしょう。
人によって学びは種々多様ですが、学ぶことで人は良い意味でかわっていきます。
ですから常に学んでいる人は、生活に余裕があり生き生きとしています。
 泣いても笑っても人は歳はとり、老いていくのが人の一生です。学んで人生楽しく過ごすことで、自分の一生に誇りをもてるようにしましょう。
 さて、あなたは今年は何を学びますか?
合 掌

平成二十七年 乙未 元旦 
延命山正光寺 住職  野 驕@晃


平成26年新春法話 「仏様が説くおもてなし」

明けましておめでとうございます。
ようこそお地蔵さんのお寺正光寺初詣にお参りくださりありがとうございます。
昨年は九月に二〇二〇年夏季オリンピックが東京に決定したことで、私たちの社会、 特に子供達の将来に大きな夢と希望をもたらすこととなりました。
招致の背景には日本の経済力、安全性など種々の要因が挙げられますが、その中におもてなしの文化に対する評価がありました。
 観光立国であるフランスもおもてなし文化を高く評価しています。
観光立国といってもフランス人は外国人に対して無関心で、観光客に冷たいという悪い印象を受けているそうです。
フランスの観光局は悪い印象を払拭し、外国人に快く滞在してもらうために、おもてなし文化を研究したそうです。
結果、おもてなし文化を持つ日本人がどうしたら心地よくフランス国内を観光できるかを模索すれば、 世界の人々の心に通じることになると結論付け、実践しているようです。
 さて、「おもてなし」という言葉は、「もてなす」の丁寧な言い方で、茶道の世界から生まれた言葉だそうです。
茶道では、「和敬」といって主人と客人の心が和合し互いに敬う気持ちを大切にします。
相手を思い自らの行動や言葉でもって快い気持ちにしてあげること、それが「おもてなし」なのです。
相手を思う気持ち「おもてなし」は、仏様の慈しみの心に通じるものがあります。
そこで慈しみの心を育てるに「無財の七施(むざいのしちせ)」という教えがあります。
この教えは雑宝蔵経に説かれていますので簡単に紹介します。
 『無財の七施』
一、眼 施(げんせ)  目は口ほどに物を言うということわざがあるように、自らの心を映し出すので あたたかい眼差しをもって接しましょう。
二、和顔悦色施(わげんえつじきせ) 柔和な 笑顔で周りの人を明るくしましょう。
三、言辞施(ごんじせ) 口中の斧、言葉で人を深く傷つけることのなく 優しい言葉を使いましょう。
四、身 施(しんせ) 人を敬い、身体を使って相手が喜ぶことをしましょう。
五、心 施(しんせ) 悪を慎み、善を尊ぶ心構えを持って行動しましょう。
六、床座施(しょうざせ) 相手の立場を理解し譲り合う気持ちを持ちましょう。
七、房舎施(ぼうじゃせ) 相手の労苦に感謝しいたわる気持ちを持ちましょう。
そしてこのお経には、七施を行うことで財物損なわずして大いなる果報が得られると説かれています。
相手を思ってお金や物をあげることも大事ですが、自らの行動や言葉を通じて優しい心を伝えることの大切さを教えてくれます。
これらの七施は誰にでもできる簡単な事です。
全部が無理でも一つでも多く日常の生活で実践していただければ、 自らの心の中に慈しみに満ちた仏心が根付くことでしょう。
 お釈迦様の教えに「諸法無我」という教えがあります。
この世の中は自分一人で生きて行くのではなく様々な命に支えられて生かされているという教えですが、 互いに助け合い思いやりに満ちた世界が実現すれば、まさしくこの世は仏の浄土となるでしょう。
 「おもてなし」という言葉だけが一人歩きしないよう、言葉に込められた世界が認める日本人の伝統的な精神を大切にし、 よりよい社会の実現のため実践していこうではありませんか。
本年も皆様にとりまして、幸多き年になりますことご祈念申し上げ、年頭法話させていただきます。
合 掌

平成二十六年 甲午 元旦 
延命山正光寺 住職  野 驕@晃


平成25年新春法話 「小さな喜びを大切に」

あけましておめでとうございます。
今年も正光寺初詣にお参り頂きありがとうございます。
昨年を表す漢字として、夏のロンドンオリンピックの日本人選手たちの活躍や、 京都大学山中伸弥教授のノーベル医学賞受賞、約三百年に一度日本付近で見られる 金環日食の体験などから「金」という字が選ばれました。
平成二十二年は「暑」、平成二十三年は「絆」と毎年十二月十二日、 日本漢字能力検定協会が公募して「今年の漢字」が選ばれます。
平成七年から始まる「今年の漢字」、過去の選ばれた字を見るだけでおよその 年の世相を知ることができますが、未だ「喜」という字が選ばれた年がありません。
おそらく一年を通じて人々が日常生活に喜びに満ちる年がないからなのでしょうか。
私たちは、自分の一生を喜びに満ち溢れた中で最期を迎えられれば、幸せと考えるでしょう。
しかしこの場合の喜びとは、お金や名誉など欲によって得た喜びでもなく、 華美を求め、虚飾におどることで得た喜びでもなく、他人の失敗や不幸など 嫉妬心から得た喜びでもありません。
こういった喜びは所詮「砂上の楼閣」で、崩れやすいもので、真の喜びとはいえないでしょう。
そんな喜びを追い求める人の心には、かえって、得た喜びを失うことに不安を抱き執着を強めていきます。
やがて執着によって人生は迷いに迷い、結果苦しみの海におぼれて一生を終えることになるでしょう。
実にこの世の中は、四苦八苦で示されるよう苦に満ちており、 自分の一生を思い通りに過ごすことは不可能です。
お釈迦様はこの「一切皆苦」の教えを通じて、諸行無常の世の中では執着な心を捨てることを説きました。
執着を捨てた中で真の喜びを見つけることが仏教徒の生き方です。
真の喜びとは日常生活で積み上げてきた小さな喜びの集大成と言っていいでしょう。
小さな喜びは、実に簡単に感じることができます。一つは、朝目覚めたときです。
眠って目覚めるは、当たり前の日常生活ですが、朝目覚められる保証というものは 百パーセントではありません。
何事もなく朝を迎え目覚められたなら、素直に喜びを感じてみてはどうでしょうか。
二つには、自然に身をおいてみることです。
空を見て、風を感じ、季節の花を愛で、鳥の鳴き声に耳を傾けるだけで、心は洗われ、 自ずと心の中に喜びを感じることでしょう。
三つには、人間関係において、自我を捨てて、相手の立場にたって物事を考え、 喜んでもらえるように行動することです。
このことを「利他の精神」と言って、仏様の心を表す言葉の一つです。
三つのことを実践し、小さな喜びを積み重ねていけば、次第に生かされている ことを実感することでしょう。
自分は生きているのではなく、生かされているという思いにたてば、 自然と誰にでも感謝の気持ちがあふれるはずです。
感謝の気持ちが、自然と自らの心に揺るぎない安心を築いてくれます。
この安心が、私たちに心身を健康にし、生きがいをもった人生に導いてくれることでしょう。
今年で東日本大震災から二年の月日が流れようとしていますが、復興はまだまだ道半ばです。
今年一年が、 多くの人々が小さな喜びを積み重ねて、大きな喜びに包まれる社会に なることをご祈念申し上げ、一言新春の法話とさせて頂きます。
合 掌
平成二十五年 癸巳 元旦 
延命山正光寺 住職  野 驕@晃


平成24年新春法話 「夢をもって人生楽しく」

謹んで、新春のお慶びを申し上げます。
本年も正光寺 初詣にお参りいただきありがとうございます。
昨年は、三月十一日の東日本大震災によって、私たちは未曾有の大惨事を目の当たりにしました。
その中で、私たちは、命の尊厳 家族の絆 人と人とのコミュニケーションの大切さを 大いに学んだ一年でもありました。
そして震災によって、多くの命が奪われました。
犠牲になった人たちの無念を思えば、生き残った私たちが、後世にしっかりと命の教えを 伝えなくてはなりません。
特に、被災した子どもたちが、この困難を乗越え未来に対し明るい希望がもてるよう に支えていくことが大切でしょう。
過去日本は、幾度と無く大惨事に見舞われましたが、その困苦を克服してきました。
その原動力となったのは、未来に対し明るい「夢」をもちつづけたことといってもおかしくないでしょう。
夢の実現に向けて、絶え間ない努力が、また次の世代の子どもたちに新たな夢を産ませ、 その連続によって、日本は今日の豊かさを享受することができました。
ところで話が変わりますが、子どもたちに夢を与えた一つにドラえもんという漫画があります。
今年はドラえもん誕生まであと百年だそうですが、作者である藤子・F・不二雄は、 既に故人となって十五年が経ちましたが、人気は今も衰えることなく、日本だけでなく世界の 子どもたちにひろく愛されています。彼は言います。
「子どもは、成長するにつれ、彼らをとりまく日常性に取り込まれ順応していくわけですが、 夢と冒険に憧れる心は失ってほしくない、と思います。
そして、その中から、二十一世紀のなりの冒険家が現れることを、期待します。」と。
このメーッセージが、漫画を通じて伝わるからこそ世代を超えて多くの人を魅了してきたのだと思います。
しかしこの言葉とは裏腹に二十一世紀を迎えて十年、今日の日本の若者や子どもたちは未来に夢を 持たなくなってきていると言われています。
何故なのでしょうか。
ひょっとすると大人が夢と冒険に憧れる姿を子どもたちに見せないからなのではないでしょうか。
親が現実の生活、今日や明日に固執し、子どもを過剰なまでに保護しているようでは、 子どもたちは冒険に憧れをもつことはなく将来に夢を描くこともないでしょう。
夢と冒険に憧れる心は、非日常的なことだけれども、想像力が高まり、生活に活気をもたらします。
私たちも忘れかけている子ども時代に描いた「夢」と「冒険」を思い出し、たまには童心に帰って、 大いに人生を楽しんでみてはどうでしょうか。
大人の「夢」にむかって生きている姿が、子どもたちに人生の楽しさや素晴らしさを教え、 夢をもつきっかけとなることでしょう。
所詮人生は儚(はかな)いものだとよくいいますが、儚く感じるのも、夢に向かって生き、 夢を実現し最期を迎え自分の一生を振りかえったときに言える言葉なのかもしれません。
ただ一度の人生を、今日に振り回されて一日一日を生きていくなら、一生は虚しいものとなって しまうでしょう。
だからこそ夢をもって人生楽しく生き、各々の人生に誇りをもっていただければ、 今後更なる良き社会が築かれていくのではないでしょうか。
最後に、ご本尊様 お地蔵さんにも夢があります。
それは、お釈迦様のように、種々の困難で苦しみ悩んでいる人たちに寄り添い、 苦しみを自らが代わりとなって受け止め、福を授けて、人々を幸せな人生に導く仏さまになることです。
その為に右の手の錫杖と左手の如意寳珠をもって日々精進されています。
皆様には、どうかこのご本尊様の心を知っていただき、深く信心を養い、ご加護があります ことをご祈念申し上げ、一言新春の法話とさせて頂きます。

合 掌
平成二十四年 壬辰閏年 元旦 
延命山正光寺 住職  野 驕@晃


平成23年新春法話 「良心を育てよう」

 平成二十三年を迎え、謹んで新春のお慶びを申し上げます。
 ようこそ、お地蔵さんのお寺 正光寺の初詣にお参りいただきました。
 近年、親が子を虐(しいた)げる、身勝手な思いで無差別に人を殺(あや)める、 良い人を装って人をだますなど兇悪卑劣な事件が後を絶ちません。 その多くの事件の背景には、動機という動機がなく、思いつきで、 咄嗟の犯行が多いようで、犯行後、してしまったことの重大さで犯人が後悔して、 罪の重さに苦しむ姿があるようです。
 人の心には、良い神と悪い鬼が住んでいると言われています。 心の中で「悪い鬼」が力を持てば、悪人へと変貌していきますが、 完全な悪人になるまえに、普通は「良き神」が、鬼の力をそいで、 心を冷静に戻し、しっかりとした善悪の判断をさせ、人を良きほうへと導きます。 そのことを「良心の呵責(かしゃく)」と言いますが、 今日の犯罪において、犯行に及んだ人が、もし犯行前に「良心の呵責」 があったならば、未遂で終わった事件が多かったのではないでしょうか。
 ところで、今日の家庭、地域社会で「良心」は果たして育てられているのか疑問を感じます。 人がこの世に生まれたとき、心の色は純粋無垢の真っ白で、 両親や祖父母、友達などと時間を過ごし、大人に成長していく過程で、 様々な色に染まると言われています。親の愛情を受け、躾がなされ善悪の 判断がしっかりできるようであれば明るく温かな色に、家庭内で愛情を受けず躾もされず、 悪に誘惑されるままに生きていけば、心は暗く汚い色になります。 だからこそ、世の中を明るくするために、生きるものの「良心」 を育てることが今非常に大切なのです。
 そもそも良心とは、「善悪の判断」ができるか否かです。 幼少の頃では善悪の判断など出来なくて当たり前です。親や地域の人々が しっかりと子どもたちの心を見守り、悪の芽をつんで、良き芽を育て、 良心の花は咲きます。自らの行為、言葉、思いを通じて、「善」なら、 周りがうれしく喜んだり、温かい気持ちになること、「悪」なら、周りが傷つき、 怒ったり、寂しい気持ちになるのだということを、家庭や学校で、 地域社会でしっかり教えることが肝心です。子どもたちは知らず 知らずしてきた自分の行いを、周りに褒められたり、怒られたりして、 経験を積み重ねて「善悪の判断」を身につけていくことでしょう。 そして、自ら善悪の判断がしっかりできてこそ「成人」つまり大人になるということです。
 しかし大人になっても、良心を見失うことのないように心がけなくてはなりません。 仏の教えの中に、「慙愧(ざんき)」という言葉があります。 「自らの行為・言動を振り返り、他人に対して迷惑をかけたかどうか考え、 かけたならば自らを恥じて悪行を恐れる。」という意味の言葉です。 日々慙愧を通じて、自らを律することで良心は堅固なものとなるといえましょう。
 最後に「正月」とは、「修正(しゅしょう)月」の略語です。 修正とは、心身を正しく修めるつまり、自らの心をのぞき、 善悪の判断がしっかり出来ているかどうか点検するということです。 初詣におまいりくださいました皆様におかれましては、新年を迎え、心身を正しく修め、 ご本尊さまのご加護を頂き 皆様各々の希望にむかって今年一年邁進されますことを ご祈念申し上げ、新春法話とさせていただきます。
合 掌
平成二十三年 辛卯年 元旦 
延命山正光寺 住職  野 驕@晃


平成22年新春法話 「朝は「おはよう」の一言から」

 新年 あけましておめでとうございます。
 本年も、延命山正光寺 初詣にご参拝賜りありがとうございます。
 「一年の計は元旦にあり、一日の計は早朝にあり」と申しますが、 皆様方も平成二十二年寅年の新年の朝を気持ち新たにお迎えになったことと思います。 ところで、朝のすがすがしいお日様の光を浴びることは、生命にとってはとても大事です。 朝日は体内のリズムを整え、日々の健康を保つためには欠かせないと言われています。
 「早起きは三文の徳(得)」といいますが、仕事であれ、遊びであれ、 一日のことを成すには朝をどう過ごすかで良くも悪くも変ります。 「夜寝て、朝起きる」は古より当たり前のことなのですが、現代人にとっては、 そうもいかないようです。朝に元気が無く、夜に元気があるというように、 朝起きることがとてもつらいようで、また夜早く寝ることを惜しむ人が多く見受けられます。 江戸時代の儒家で、健康長寿の秘伝書とも言われている書「養生訓」 を記したことで著名な貝原益軒の言葉に「古人は 人の朝早く起くると、 遅く起くるとを以て家の興廃を知ると言へり。朝早く起くるは家の栄えるしるしなり、 遅く起くるは家の衰ふ因なりと言へり。」とあります。 しかし、今の日本社会は、朝型ではなく夜型だといっても過言ではありません。
 夜型社会は、犯罪の背景、環境問題、教育問題の大きな要因になっていることを 私たちは自覚しなければなりません。特に問題なのが、眠らない子どもの増加です。 世界の国々の中でも日本の子どもは最も遅寝であると調査されています。 そして遅寝であるため、睡眠時間が短く、かえって子どもの成長に 害を及ぼすとまで言われています。最近の医学的な見解では、睡眠時間の減少は、 子ども特に幼児期なら脳細胞の形成に良くないとされ、小学生だと学習能力の低下、 集中力の欠如、感情の不安定につながり、大人に至っては老化をすすめるとされています。
 こうしたことは、最近の小学生の学力テストの結果をみれば端的に表されています。 夜遅くまで遊んだりして、睡眠時間の短いに子どもに対して、 夜九時ごろまでには就寝して、早起きをしている子供は、塾に行かなくても 学校の授業だけでそれなりの結果を残しています。あらためて「よく寝る子は育つ」 という諺を噛みしめなければなりません。
 夜型社会から脱するためにも、朝の時間を有意義に過ごすことを考えようではありませんか。
 ちなみに僧侶の生活は、朝のお勤め(勤行)から始まります。 お勤め開始は、日の出頃が基本です。ご本尊さまにお水やお香をささげ、 経典を読誦することで、心を律し、昨日を感謝し、今日一日の無事を祈ります。 でもこうしたことは、仏壇や神棚がある家であれば、誰にでもできる事です。 朝起きて、身支度を整え、ご先祖様や神棚にお参りすることで、 自然と心にゆとりが生まれると思います。 そして、ゆとりを感じながら、家族同士で、ご近所で朝のお互いの挨拶 「おはようございます。」を元気良く交わせばとで、更に気持ちよく朝の 一時を過ごせるのではないのでしょうか。そもそも「おはようございます」 には「お早くお目覚めですね。」とういう相手を思いやる気持ちの表れの言葉とされています。
 仏教の教えの中に「和顔愛語(わげんあいご)」という言葉あります。 穏やかな顔で優しい言葉を交わすという意味ですが、朝の挨拶にこそ、 この教えの大事さがあります。目覚めるということの喜び、それは生きているから こそ実感できる喜びであります。その喜びを素直に顔に表し、 相手の目覚めを喜ぶ思いやりの気持ちを何気ない挨拶に込めてみませんか。
 朝を迎え、家族同士が、ご近所が、地域社会が、お互いの挨拶「おはよう」 を和顔愛語の精神で交わすことができれば、必ず夜型社会を脱し、元気のある、 思いやりのある社会を築けることでしょう。 合 掌
平成二十二年 庚寅年 元旦
延命山正光寺 住職  野 驕@晃


平成21年新春法話 「普段の健康は、歩くことから」

 新年 あけましておめでとうございます。
 今年も、延命山正光寺初詣にご参拝賜り感謝申し上げます。
 さて、ご参拝の皆様におかれまして、ご本尊様に一番願いたいことは健康だと存じ上げます。 生きていくうえで、健康でありつづけることは、容易ではありません。
 健康を保つために、皆様も日頃様々な努力をしていることと思います。 健康の基本は何よりも先ず『歩く』ことと言われています。現代人にとって、 電車や自動車など便利な乗り物があるおかげで、昔の人と比べたら格段と歩く距離は短いですし、 歩くことの少ないことが運動不足につながり、健康を害す一因となっているそうです。
 そもそも「歩く」ことは、日常生活上もっとも身近な行動で、 身体内のエネルギーを効率的かつ経済的に使用するには最もよい運動だそうです。 また、「歩く」には、足を自分の意志で操るという意味があります。 今から一千万年前、人類の祖先はアフリカ中央部にいたとされていますが、 気候変動で環境が悪くなると、人類の祖先は環境の良き場所を目指して、 世界各地に歩いて移動したそうです。こうした人類の絶え間ない「歩き」によって、 今日の私たちの社会が築かれました。ですから歩くことの意義の一つに、 良き場所を探すことつまりは、心が落ち着く場所を探すためのひとつの手段、 行動であるということを見出すことができると思います。 歩くことの大切さを改めて学ぶ必要があります。
 仏教の開祖お釈迦様は、今から約二千五百年前に、八十歳で亡くなりましたが、 当時の人々の平均寿命が三十歳前後と言われる中で、長寿をもって大往生されたと いっても過言ではありません。お釈迦様の長寿の秘訣は何かと言えば、 物事にこだわらず自然のなすがままに生きたことと、三十五歳でこの世の真理を お悟りになって以来、亡くなるまで四十五年間 インド東北部を中心に歩いて 布教したことがあげられます。町から町へ、困っている人や、悲しみや不安を抱く人々の所に、 常に歩いて赴き、救いを求める人々の心の苦しみを取り除き、楽しみを与えつづけました。 お釈迦様が生涯歩いた距離は、想像を絶する数字ではないかと思います。 また、お釈迦様は、歩いていく中で、この世の諸行無常(移ろい変わる世の中)を感じ取り、 心の修養をされました。結果、お釈迦様は心身共に健康を維持されたのではないでしょうか。
 日々、何気なく歩いているだけでは感じないことでも、自然の姿、 人々の生活の移ろい変わることを意識して歩けば、私たちもいろいろな事を発見することと思います。 この世に生まれたのなら、この世の美しさをしっかりと感じとってほしいものですが、 近年は環境問題が叫ばれています。しかし、環境問題の解決の一歩は、 自ら環境が悪化している現状を直接見ることだと思います。空缶やタバコのポイ捨ては、 意識して歩いてみればすぐに分かる問題です。 環境の乱れは、人々の心の乱れと弘法大師は説きます。
 とにかく歩いて見ることです。歩き続ければ、いろいろな事に出会います。 しかし悲しいことや困難なことに出会って、歩くことをあきらめないで欲しいものです。 休むことは大事です。一歩一歩、歩き続けた道が、皆さんの各々の人生です。 この先何が待っているかは分かりませんが、歩くことは健康につながるということ、 人類の祖先は歩くことで良き場所を求めたという大切さを忘れずにいれば、 必ず幸せの光が待っていることと思います。
 今年一年、皆様の各願いが成就しますことご祈念申し上げ、一言法話とさせていただきます。 合 掌
平成二十一年 己丑年 元旦
延命山正光寺 住職  野 驕@晃


平成20年新春法話 「どうせなら笑って過ごしましょう!」

 あけましておめでとうございます。
 今年も、延命山正光寺初詣にご参拝賜り深謝申し上げます。
 さて、昨年は、家族や友人などと大いに笑うことがありましたか。
 古来より、日本では「笑う」ことは吉事と考えられてきました。
ことわざにも「笑うかどには福来る。」(いつも和気あいあい笑顔が 満ちている家族には自然と幸福に恵まれる。)「笑って損したものなし」 (何事にも腹を立てず、いつもにこやかにしていれば、友人から愛され幸福を招く。)とあります。 昔の人は、「笑う」ことが、人生を幸せに導くものと信じていたからこそ、 今日に伝わる言葉となったのです。
 現代では、医学的にも「笑う」ことが心身のこりをほぐすのに良いことだと証明されています。 笑うことによって、全身の血流がよくなり、血圧が下がり、心臓の働きを良くする ことから循環器系の疾患の治療に効果があると言われています。 そして、「笑い」は、大脳の活動も活発にさせ、意欲や向上心を起こさせ、 現代病の誘因の一つでもあるストレスの解消によい影響を与えるとも言われています。
 ところで、十一面観音菩薩という仏様があります。 十一の顔を持つ観音様でその一つに「大笑相」という口を大きく開けて大笑いしている顔があります。 この顔が伝える教えに、自分の子供が、きちんと反省して、改新しようとしているところを見て、 うれしくて涙を流しながら笑っている親の顔を表しているといわれています。 またこの顔を見たものには、煩悩にみちた心の悪を 大笑いによって吹き飛ばし 利益を授けるともいわれています。一度私もこの顔を拝謁しましたが、本当に印象的で、 思わず笑ってしまいましたが、何となく心が豊かになるのを感じ貴重な体験をしました。 しかし「大笑相」の顔は、正面にあるのではなく真後ろにあるので中々拝謁 することが難しいので、機会があれば是非一度拝謁してみて下さい。
 また、大体の仏像は、大笑いこそしていませんが、なんとなく微笑んでいるような表情 「静かな微笑みー和顔―」をしています。当山のご本尊「地蔵菩薩」の ご尊顔をよくよく見てみれば、静かに微笑んでいる姿を感じ取ることができます。 もちろん慌しい心では難しいでしょう。心落ち着かせ静かにみれば判ることと思います。 ご本尊様の「静かな微笑み」には、信心する人々を温かく見守ってくださる仏様の 大慈悲の心が表れています。拝んでいると私たちの心も温かく豊かになってくるはずです。 そして、その心を大切にし、「和顔」でもって、他人と接することができれば、 自然と温かな心の交流を築けることでしょう。
 「笑って暮らすも一生、泣いて暮すも一生」という言葉がありますが、 どうせ生きるのなら、笑って愉快に楽しく一生を過ごしたいのが常人の願いだと思います。 と言っても、日々大笑いをして過ごすことは、おかしいことになりますが、 家族、近隣の人たち 友達などと、面白かった思い出を話したり、自分の失敗したことを 笑い話にしたり、おかしな話をしたりして、「笑いあう」ことを大切にしたいものです。 笑いがあるところには、邪気はきません。「笑」という漢字の字義に「花が咲き誇る」 という意味があるように、私たちにとって「笑う」時は、命を輝かせている時間でも あることを知っていただければと思います。
 今年一年、皆様の各願いが成就しますことご祈念申し上げ、一言法話とさせていただきます。 合 掌
平成二十年 戊子閏年 元旦
延命山正光寺 住職  野 驕@晃


平成19年新春法話 「一人一つしかない命」

 新年明けましておめでとうございます。
 いよいよ平成十九年 亥の年が始まりました。 昨年を振り返りますと、恒例の漢字一文字でその年を表す言葉として「命」があげられました。 絶え間なく続く凶悪犯罪や、飲酒による交通事故、学校教育での虐めなどなど数え切れませんでした。 特に子供の命を取り巻く環境は、一見安全平和であっても、 常識のない大人によって危険にさらされています。 か弱い命を大切に見守っていく社会の実現が望まれて久しいですが、まずは、ご家庭から、 ご近所から命の尊さを真剣に学ぶことが大切だと思います。 「一人一つしかない命、二度と手に入れることができない、かけがえのない、はかない命。 命持つものはすべて平等である。」ということを小さい命にしっかりと教えていただきたいですし、 私たち大人も改めて実感してほしいものであります。
 命を用いた言葉には、「宿命」「運命」「使命」などがあります。  「宿命」とは 命が宿ること、これは私たちの命の誕生は自分の意志に基づきません。 両親の2つの命が溶け合い、そこになんらか知らぬ尊い力 これを縁といいますが、 働いて小さな命が誕生します。しかし生まれる時代、場所、環境は選べません。 そうした命の誕生における環境を宿命と呼びます。この宿命は変えることができません。 宿命にこだわらず、ありのままの命の現状を素直に認めることで、 自分の生き方が示されると思います。
 次に「運命」ですが、これは命を運ぶとういうこと。これには自分の意志が関わってきます。 全てとは言い切れませんが、大体は自分の日頃の生き方によってさだまっていくと思います。 楽は苦の種、苦は楽の種という言葉がありますが、楽だけを求めていけば最終的には 大きな苦しみに出会いますし、苦労を惜しまず生きることは、一つ一つの苦労が花となり実となって、 人生を豊かにしてくれます。そして大事なことは日頃の生活において、悪因をつくらず、 善因をつむ事をここがけて頂きたいと思います。悪因とは知らず知らずのうちにつくられます。 それは、健康のことであったり、人間関係であったりします。 暴飲暴食 深酒 ヘビースモーカーは、体を損ねる因となりますし、 何気ない振る舞いや言葉使いでもって人との付き合いに悪影響を及ぼすことが多々あります。 善因は、自信過剰にならず健康に留意し、足りることを知って欲を慎み、 人に優しく接することで自ずと積まれていくと仏様は説きます。 これを善因善果 悪因悪果 つまり善いことをすれば、善き結果をもたらし、 悪いことすれば悪い結果を招くといいます。こうしたことを心がけて生活すれば、 運命は良き方へと導いてくれることでしょう。
 最後に「使命」、命を使うということ。 人生において成し遂げなくてはならないと感じたとき、その人の命は大きく輝くことと思います。 人は様々な縁によって、いろんな人と出会い、機会に恵まれます。 そのなかで、自分の命を惜しみなく使う、ここぞと思うときが人それぞれにあることと思います。 そこにその人の生き様があらわれ、自分の生きがいを感じることができるのではないでしょうか。
 人にはそれぞれの宿命があります。 宿命を出発として生きていく中で、私たちは、多くの人々と出会い、 種々の環境において様々な体験をすることで、縁がきづかれます。 その縁によって運命が決まり、やがて使命を知ります。 最後に目を閉じるとき、自分の一生に真の幸せを感じるか否かは、 日々の私たちの生活にかかっています。
 新年を迎え、心新たにして、悪因を作らず、善因を積むことを心がけていただければ、 皆様の種々の願いはきっとかなえられ、ご本尊様の大いなるご利益を授かることと思います。

平成十九年 元旦
延命山正光寺 住職  野 驕@晃